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2011/06/18

細川家の本棚から

霧雨の降る中、永青文庫夏季展「細川家の本棚から~中国古典籍の世界~」に行ってきました。永青文庫は熊本藩細川家の文化財を今日に伝え、能面や能装束のコレクションでも知られています。

今回の展示では、慶應義塾大学附属研究所斯道文庫に寄託されている漢籍の中から、優品三十数点が出品されています。唐代書写の敦煌本『文選注』が目玉です。そのほか、明代の弘治版、嘉靖版『文選』、清の乾隆帝の命により刊行された活字版、武英殿聚珍版『易経』、室町時代に開版された天文版『論語』など、日中の出版文化史を知るうえで貴重な書籍が見られます。

場所は 文京区目白台。雰囲気のよい洋館です。周囲は深い木立で、休日の散策にピッタリです。文庫の前の石段を下ると神田川です。なんだか向こうから、地井さんが歩いてきそうな感じがしませんか?

夏季展の終了後、新春まで休館だそうです。行くならいま。

http://www.eiseibunko.com/index.html

2011/06/14

観世黒雪からの手紙

少し前のことになりますが、「江戸時代を世界遺産に」というブログを開設されている方から、九世観世大夫黒雪の書状についての情報をいただきました。
ご所蔵の黒雪書状を能研まで実際に持ってきて下さり、山中と宮本の二人で拝見しました。















光悦流の書家としても有名な黒雪の書状だけに、「書」としてもなかなか見応えがあります。
宛先の「木右京」は、彦根藩井伊家の家老、木俣右京。しばらくご無沙汰が続いているが、主君の井伊掃部直孝とともに上洛の節、対面して積もる話をしたい、という内容の書状です。

このような書状を能楽史の資料として扱う場合には、まず何年に書かれたものかを特定する必要があります。
年を確定する手掛かりは二つ。

一つは、観世黒雪の署名が「黒雪斎/暮(花押)」とあることです。それまで「観世左近大夫」を名乗っていた黒雪が「黒雪斎」と改名したのは、元和七年(一六二一)末か、翌元和八年はじめのこと。この書状には「黒雪斎」とありますから、当然それ以後のものということになります。

もう一つは、井伊直孝が「御上洛」の供奉を務める、とあることです。直孝は寛永三年六月、後水尾院の二条城行幸のともなって将軍家光が上洛した際、彦根城から供奉の列に加わっていますから、先の書状は、どうやら寛永三年のものである可能性が高いようです。

この書状とともに、十五世観世大夫元章が「梅」の絵を自ら描き、その賛として自作の能「梅」の一節を記した「梅」自画自賛の軸も見せて頂きました。
「江戸時代を世界遺産に」のブログに、黒雪書状とともに写真が載せられています。ご関心がおありの方は、どうぞ御覧下さい。http://blog.livedoor.jp/sesson_freak/archives/50355706.html

2011/06/13

観世アーカイブ

先日は、観世文庫に調査に出かけてきました。

観世文庫には、世阿弥自筆本をはじめ、伝書・謡本・型付・書状など、
観世宗家に伝来した貴重な能楽資料が多く保管されています。
それらの資料を一点一点調べ、書誌と解題を付けて、
画像をインターネット上のデータベースで公開する、
というプロジェクトによる調査です。
松岡心平先生(東京大学教授)を中心に、
科学研究費補助金により行なっている研究プロジェクトで、
山中先生・宮本先生をはじめ能研のスタッフも参加しています。
私、高橋も編集などを手伝わせていただいています。

観世宗家の英断によって、ネット公開が始まったのが2009年の秋で、
能楽研究上、画期的なことでした。
今、それをより充実させるべく、調査を続けているのです。

ネット上のデータベース「観世アーカイブ」
http://gazo.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/kanzegazo/index.html
は、世界中のどこからでも、誰でも見ることができますので、
ぜひのぞいてみて下さい。
検索画面はこんな感じになっています。










データベースはまだ構築の途中で、不備も多いのですが、
少しずつ改善していく予定です。

2011/06/12

新・能楽講座 〈鵺〉徹底分析 が始まりました

皆さん、こんにちは。鬱陶しい季節ですが、いかがおすごしでしょう?

さて、今年も法政大学エクステンションカレッジ、新・能楽講座が始まりました。今年とりあげるのは〈鵺〉。6月11日(土)に第1回の講座が催され、私こあきもとが本説となった『平家物語』のお話をしました。お聞きくださった皆さま、どうもありがとうございますm(_ _)m

『平家物語』巻四には源頼政による二つのヌエ退治の話が載せられています。一度目に頼政が仕留めたのは、頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎という合体怪獣で、鳴き声が鵺に似ているというものでした。二度目に退治したのは、鳥の鵺そのものです。

鵺は「ヒヒ」と鳴いて、その声が不吉なものと考えられていたようです。平安時代には、その鳴き声を聞こうものなら占いをしたり、呪文の和歌を唱えたりと、対応が結構大変だったみたいで(笑) 

ただでさえ鳥は冥界と行き来する存在。特に、夏の夜を代表するホトトギスは、その鳴き声がシデノタオサと聞きなされ、死出の山からやってくる鳥とも考えられていたことは有名ですよね(西村亨『王朝びとの四季』講談社学術文庫、解説:益田勝実)。

わが鵺も、古記録上、四月から六月(旧暦)までの夏に散見されるようで、ちょうど今のような時期の晩に登場したのでしょうか……。